冬季オリンピックが開幕した。
バンクーバーも今年は雪不足で準備が大変とのことだが、今のところ盛り上がっているようで何よりである。
開会式の聖火台やスケートの製氷機など、機械的なミスが多いのが今のところの特徴だろうか。
開会式の視聴率も良かったらしく、日本人の注目度も高いらしい。
これまで冬季は夏季以上にメダルの可能性が薄いせいか、そんなに注目していなかったような気がする。
近年は世界で活躍する選手も増えてきたので、自然にメダルへの期待も高まってきている。
時差の関係もあって、視聴しやすいというのもあるだろう。
普段テレビなどつけないオフィスでも、朝からつけっ放しにしているかもしれない。
夜になれば、一億総評論家そして批評家となるわけだ。
「もっと頑張れっ!!」とか、簡単に言わないようにね。
選手は私達よりもはるかに頑張っているのだから。
逆に「おまえが頑張れよ」と言われてしまうのがオチだ。
そんな選手たちの裏側で、多くのカイロプラクター達が働いている。
各選手の地元だけではなく、公式にバンクーバーに乗り込んでいる人たちもいる。
最高の舞台で最高のパフォーマンスを実現すべく、直前まで貢献できるのである。
そうした活動も、残念ながら日本では認められていない。
スポーツカイロプラクティックを勉強している先生方の中には、悔しい思いを抱いている先生もいることだろう。
一年でも早く、カイロプラクターの参加が脚光を浴びる日が来る事を願いたい。
そして、それから一年でも早く、それがニュースにもならない日が来る事を信じたいものだ。
そんなスポーツカイロプラクティックに対して、私の中では苦い思い出がある。
[7回]
以前、プロのサーファーを担当したことがあった。
私の人生において、最初で最後のプロサーファーかもしれない。
彼は腰を痛めていた。
それ以外にも、背部の張りや可動域の低下が見られていた。
私はカイロプラクターとしてサブラクセーションを取り除き、バランスの調整を心掛けた施術を行った。
ところが、4回目の施術の後、彼が私の前に現れることはなかった。
予約キャンセルの電話さえなかった。
「きっと試合の転戦で、移動が忙しいのだろう」などと、勝手にそう考えていた。
それからしばらくしても、彼は現れなかった。
仮に理由があるとするならば、その原因はきっと私にあるのだろう。
とはいえ、何かミスを犯した覚えはない。
その当時であるから、確かに実力不足というのはあったとは思う。
それでも正しいカイロプラクティック診断の下、的確な施術を行ったはずである。
結局は、結果が出せなかったということ。
少なくとも、プロを満足させるだけの施術が出来なかったのだ。
カイロプラクターとして、まだまだプロと呼ばれる域には達していない。
何か“現実”というモノを目の前に突きつけられた、そんな気がしていた。
もう、あんな思いはしたくない。
その悔しさを糧として、これまで精進してきた…そのつもりだった。
そう、つい先日まで。
有名なスポーツカイロプラクティックの先生のブログに、以下のような事が書かれていた。
『アジャストしたら、逆に調子が悪くなってしまうこともあります。
その競技の特性や、アスリートの身体の使い方など、個々で違いがあるからです。
アスリートの場合、その点を考慮しながらアジャストしていく必要があります』
当時の自分には全くなかった考え方だと思った。
先程、「的確な施術」とは書いたが、それは一般の腰痛レベルでの話に過ぎない。
つまりプロのアスリートとしての彼を全く無視していたのだ。
彼が無言で去っていくのも無理はない。
『アスリートは自分の身体の感覚に敏感な人が多い』
先の先生はこうも書いている。
プロのアスリートが最重要視することは、身体の機能性の向上である。
よって、ただサブラクセーションを取り除いておけばいい訳ではない。
相手の身になって考えるという、基本中の基本が疎かになっていた。
カイロプラクターとしての勝手な物差しで計ってしまい、誤った判断を下してしまった。
相手の、それもプロのアスリートとして求めているモノを全く理解していなかったのだ。
今はそれなりに経験も積み、理解しているつもりではいる。
いや、実のところは、全く解っていないのかもしれない。
以降、アスリートとの接点がない以上、そうした経験を重ねる機会さえないのだから。
幸いにしてここ数年、何人かのスポーツカイロプラクティックの先生方と接点を持つ機会に恵まれた。
いずれ勉強会に参加するなどして、自分のカイロプラクターとしての懐を深くしていきたいと思う。
苦い思い出は未だ苦いままだ。
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