また間が空いた。
裏ではいろいろと書き連ねているのだが、最後まで到達しない「投げっぱなし状態」が続いていた。
いろいろ書き連ねるくらいであるから、その間も当然いろいろあった。
ごく最近でいえば、学会への参加であろうか。
昨年同様、JAC主催の第10回日本カイロプラクティック科学学会学術大会に参加してきた。
その2週間前には日本カイロプラクティック徒手医学会の学術大会にも参加してきた。
昨年に関しては既に書き残してある。
だからお題に「Part 2」がついているわけだ。
ってなことで、つらつらっと書いてみる。
そう、毎度のごとくノープランでね。
[1回]
まあ、感想を端的に書く。
JACは内向きな大会
JSCCは外向きな大会
これに尽きる。
JACは1つの会場に籠る中で演題が変わっていく。
JSCCはワークショップの際に移動があり、各人が好みの部屋を選んでいく。
1つの会場だとどうしたって空気感が停滞してしまう。
とはいえ、セミナーとしてはそっちのほうが普通だといえる。
移動があると何となく気持ちのリセットができる。
一方で興味あるワークショップが同じ時間に重なるとフラストレーションが溜まってしまう。
とどのつまりは一長一短。
白黒つけたがる風潮は以前に書いたとおりだが、そうすることの意味は正直よくわからない。
そんな中、両学会にてたまたま取り上げられたトピックがあった。
「エビデンス」である。
JACに至ってはメイントピックとして掲げられていた。
「カイロプラクティックにはエビデンスがない」
医学方面からよく言われ聞かれる言葉である。
「だからダメなんだ」とまで言い切るお偉い方もいらっしゃる。
ところが、「痛いからお医者さんに行ったのに何もしてくれなかった」という方々が少なくない。
X線写真やMRI等の画像診断で何も出てこなかったから薬だけ出して様子を見ようというヤツ。
つまり、エビデンスがないから何もしないってことだ。
目の前でどんなに痛みを訴えてもエビデンスがなければ何もできない西洋医学。
だったら、そちらの言う「エビデンスのない」側に任せてほしいものだ。
そもそもカイロプラクティックはプライマリーケアであるべきなのだから。
それでも安心感に疑問が残る。
カイロプラクティック教育にバラつきが大きい日本においては尚更のことだ。
では、カイロプラクティックにおけるエビデンスとは何なのか??
結果の出せる先生はテクニックが上手い。
テクニックの上手い先生はパルペーションが上手い。
しかしながら、そのパルペーションに関してエビデンスを出すことはおそらく不可能である。
パルペーションを可視化・数値化することが不可能だからだ。
物事何であれ、基本「何かわからんけど、効果がある」からスタートする。
D.D.パーマーだって何かわからんけどハービー・リラードの背骨を押してみたに違いない。
で、効果があったことからのサブラクセーション理論だったはずである。
おそらくサブラクセーションの可視化・数値化も不可能だろう。
エビデンス無きカイロプラクティック・フィロソフィー。
それでもカイロプラクターは結果を出す。
エビデンスにこだわることの是非。
一人悶々としている中、ある先生の一言で後押しされた気がした。
「エビデンスに支配されず、
自らの閃きを信じ、
そこから自ら研究を重ねエビデンスを構築していく」
結果を出してきているカイロプラクターの先生は結構おられると思う。
それら結果からエビデンスを導き出すことはやって然るべきと個人的には考えている。
フィロソフィーとエビデンスの両立。
どう考えても無理がある。
無理が通れば道理が引っ込む。
無理も通れば道理になる。
そう信じて止まないカイロプラクターは少なくないように感じる。
それではまとまるモノもまとまらない。
症例報告がイマイチ盛り上がらないのはそれをエビデンスとして捉えていないからではないか。
要は他人事。
「各々の指先には各々のエビデンスが乗っている」
カイロプラクターはそのことを各々で気がついている。
各々のことだけに、それをカイロプラクティックのエビデンスとして捉える発想がない。
「何かわからんけど、効果がある」のであれば、それをエビデンスとしてまとめる価値はあると思う。
「何かわからんけど、悪くはならない」のであれば尚更である。
などと考えてみる。
あとは最新の研究を読んでから書き足していきたい。
あ、そうそう、最後に1つだけ、決して忘れてはいけないヤツね。
懇親会に関してはJSCCの圧勝。
というよりも、JACのがヒドすぎた。
あれは懇親会と呼んではいけない。
人生の中でもワースト1と言っても過言ではなかった。
最悪。
金返せレベル。
それくらい、ヒドい。
まあ、いろんな意味で
ちゃんとカイロプラクティックしなさい。
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