このところ、私の知るところで本を出している人が複数人いることに気付いた。
中には新聞広告まで出していたりするから驚きである。
本が売れないということで、全国で1日1軒の割合で書店が閉店しているらしい。
そんな出版不況の中で敢えて出版する、その意義は何なのだろう??
申し訳ないが、儲けに繋がるとは考えにくい。
事実、そうした本のほとんどを私は店頭で見かけたことがない。
よって、購入はおろか立ち読みさえ出来ず仕舞いでいる。
おそらく、書いた当人たちも儲かるとは思ってもいないだろう。
ある程度の採算は度返しにして、それでも自分の主張を形にしたかったのではないか。
しがないブログ書きとして、その気持ちは理解できる。
それでも、きっとカイロプラクティックを前面に押し出した構成にはなっていないのだろう。
せめてカイロプラクティックの解説や説明くらいは書かれていると思いたい。
つーか、カイロプラクティックをメインにして書けよ!!
[5回]
一応、個人的見解としておくが、カイロプラクティックには夢がある。
だから、カイロプラクターは夢が持てる。
一般論として、夢を見ることを忘れた時、人は本当の意味での貧困に陥るのではないだろうか。
そういう意味では、カイロプラクターは幸せだと思う。
ただ、夢はあるが希望がない。
それがこの国におけるカイロプラクティックの現状だ。
兎にも角にも、カイロプラクティックの認知度と理解度があまりにも低すぎる。
日本にはカイロプラクティックの他にも整体や接骨、更にはマッサージと、傍目には紛らわしい業種が乱立している。
不幸とも言えるこうした状況がカイロプラクティックへの理解の邪魔をしている。
そうかもしれない。
しかし、それだけではないはずだ。
一番の不幸は、カイロプラクター自身がカイロプラクティックに然程興味を示さなくなっているということ。
加えて、カイロプラクター以外の人達がカイロプラクティックに興味津々だということだ。
カイロプラクター以外の人達はカイロプラクティックそのものに興味を示しているわけではない。
カイロプラクティックのテクニック並びに脊柱に対するアプローチの仕方を知りたいだけなのだ。
彼らからすればフィロソフィーなんてどうでもいいのである。
困ったもんだ。
ただ、それ以上に困ったものなのが、自らの生業に興味の失せたカイロプラクターである。
どうしてカイロプラクターが興味を失ってしまったのだろうか??
私はこのブログを初め、機会ある毎にカイロプラクターの意識改革を促し、鼓舞してきたつもりである。
まあ、私の実力不足もあるだろうが、それを考慮したとしても驚くくらいに反応がない。
というより、全く以って他人事として捉えているようなのだ。
何故、そこまで無関心でいられるのか??
思えばこのブログを始めた当初から、私はずっと考えてきたような気がする。
考えて考えて、何となくではあるが1つの仮説を思うに至った。
若いうちはカイロプラクターの主語が“自分”になっているように思える。
“自分”が主語となっているうちは、客観視できないのだろう。
よく「若いヤツがもっと頑張らないと…」などと、昔の若いヤツが言ってしまいがちではある。
が、若いヤツは自分が主語となっているので、そんな余裕などあるはずもない。
それが経験と、それ以上に年齢を重ねていくにつれて、主語が“自分”ではなくなっていく。
同じモノを見たとしても、その見方そして見え方が明らかに変わってくる。
経験によって培われるものだけに、それを若手に求めるのは酷なことかもしれない。
それでも、極々たま~にイキのいい若手が現れる。
待望していただけに、当然期待のホープとして持ち上げられる。
待望と期待のボルテージが高ければ高いほど、より多くの課題が与えられ、より高い結果をも求められる。
どんなに有望でも、所詮は若手である。
結果、高く持ち上げられた状態から一気に落とされてしまう。
ある時は周囲に潰され、またある時はその芽を摘まれてしまうことになるわけだ。
どこの世界でもある話だとは思う。
ただ、そもそもの人材が不足がちなカイロプラクティック業界。
有望株の損失は向こう10年もしくはそれ以上に亘って引きずりかねない。
いつの時代もヒーロー待望論は言われ続ける。
滅多に現れないからこそ言われ続けるわけだ。
とはいえ、いざ現れたからと言って無理難題を突き付けられたのではたまったものではない。
ヒーローとはいえ万能ではないのだ。
まあ、ヒーローが若手とも限らないわけで…。
実のところ、若手と自覚している連中も言うほど若手ではなかったりする。
周りに目を向けないのは、ある意味現実逃避以外の何モノでもない。
それでも、人はヒーローに憧れる。
そして、ヒーローになりたがる。
そんな思いを抑えきれず、自分だけのヒーロー像を追い求め実現しようとする。
そうして、“お山の大将”という名のヒーローが誕生するわけだ。
ただし、その山にいるのは自分だけで、その山を登ろうとする者など誰もいない。
他からすれば憧れの存在でも何でもないということだ。
お山の周りには、もっと高い山が濫立している。
何となく気づいてはいるが、わざわざ周りを見ようと思わないので、“お山の大将”のままでいられる。
つまり、主語を自分にしたまま引き籠り、歳だけを重ねていく。
だから、年齢の割に客観視することができないのかもしれない。
ガキおやじってことだね。
何事でも一生懸命にやっていれば必ず誰かが見ていてくれて、手を差し伸べてくれる。
よく言われている一般的希望論であり、誰しもが心のどこかでそう信じているのではないか。
カイロプラクティックも、そしてカイロプラクターもそれを信じている。
ただ、カイロプラクティックはそこまで我慢していられるだろうか。
それだけの体力があるのか、甚だ疑問である。
そもそも高齢化と少子化の問題を抱えている日本社会。
その中にあって、一体どれだけの若者たちがカイロプラクターの道を選ぶものなのか。
高齢化はともかく、カイロプラクターの“少子化”加速度はハンパではない。
もはや引き籠っている事態ではないのである。
ちゃんとカイロプラクティックしなさい。
マジで。
PR