いつの頃からか、ブログに拍手機能なるモノが付いた。
気に入ったらポチッと押すようなヤツだ。
他のブログでも見かけはするが、実際に押したことはないような気がする。
そんなわけで、意味も良く分からずに設定してみた。
すると、ポチッとすると共に、どうやらコメントが残せるらしい。
しかも一方的に残すだけで、それに対してこちらから返信はできないようだ。
先日、その拍手機能にコメントが残されていた。
どうやら、直接ではないにしろ、間接的には「動く私」を知っている人らしい。
最近増えたよなー、そういう人。
数週間前にあるセミナーに参加したのだが、同じ参加者ながらいつも以上に挨拶をされたのだった。
しかも、こちらが名札をつける前から、しっかりと名前と共に挨拶されたのである。
毎度のことながら、私はほとんど誰も知らないのに、多くの人は私を知っている。
「ソウルナイト」の後、その傾向はさらに強くなったようだ。
ホント、申し訳ないこってす…。
もっとも、このコメント主の場合、私がアメリカに居た時代まで遡るらしい。
私が解剖実習の手伝いをしていた時だという。
うーん、きっと私がまだバリバリの「謎の東洋人」だった頃だね。
そんな彼のコメントだが、どうやらその日を以って自分のオフィスを閉める、との事だった。
あらら…。
[5回]
これまた申し訳ないが、私はその彼の事を知らない(と思う)。
よって、卒業後の年月や、そこに至るまでの経緯など、一切分からない。
せっかく開業したオフィスを閉める、その理由。
もちろん、「経営上の問題」というのがあったのだろう。
ただ、少し気になることがコメントとして残されていた。
『カイロ学校にいた時は本当に楽しめたのですが、いざ自分で開業してみるとなかなか楽しめないものですね』
つまり「カイロが楽しめなくなってしまった」のだという。
日頃からカイロプラクティックを楽しむことを推奨している私としては、ちょっとスルーできない言葉である。
学生時代の楽しさを、開業後にもそのまま求めるというのは、正直ムリがある。
中学・高校時代と同じ恋愛やときめきを、30代になって求めるのと同じようなものだ。
若い時は、あらゆる意味でテクニックはないけど、体力があった。
それから年齢を重ねて、テクニックは身につけたけど、その代わり体力が無くなった。
両方を同時に有することができればいいのだけれども、そうはいかない。
それが人生というものなのだろう。
ホンに人生はよくできている。
現状を維持し続けるのは難しい。
ましてそれ以上を求め続けるのであれば尚更である。
イチロー選手がスゴイと言われるのはそれ故であろう。
若い時は「夢」を語ることができる。
しかし年齢と共に現実を知り、いつしか自分の「夢」に蓋をしてしまう。
そして、「夢」はより身近な「目標」へと形を変える。
例えば、アメリカに憧れ、留学を夢見ていた青年がその夢を実現したとする。
それは、「夢」が叶った瞬間であると同時に、「夢」を失った瞬間でもある。
留学はしたものの、何をするわけでもなく、ただ学校へ行くだけの毎日。
そのうち学校へも顔を出さなくなり、やがては失意のうちに帰国する。
そんな学生は数えきれないくらいに見てきた。
同様に、独立開業を夢見ていた人が開業できたとする。
当初しばらくは顧客獲得へと向けて忙しくしていられるだろう。
功を奏して、今度は本来の業務による忙しさに追われる毎日となってくるかもしれない。
その時、確固たる「夢」ないし「目標」を持ち合わせていなければ、それこそ忙しさに埋没してしまうだろう。
それはまるで、心を持たないアジャスティング・マシーンのように。
そして、やがて訪れるであろうバーン・アウト。
仮に経営上の成功を収めていたとしても、そこからお金以外の何かが得られるのだろうか。
まして、それで楽しいのだろうか。
日本におけるカイロプラクティックの現状は芳しいモノとは言い難い。
それに対し「先がない」と捉えることもできるが、逆に「夢」を見ることもできる。
そう、カイロプラクターには「夢」があるのだ。
私にはカイロプラクターとしての「夢」がある。
加えて今は、施術後の私に対して向けられる数々の笑顔と触れあえることが、何よりも楽しい。
それじゃ、ダメなのかな??
オフィスを閉めた彼が今、どうしているのかは分からない。
カイロプラクティック自体から離れてしまったのかもしれない。
仮にそうだとしたら、この先どの道に進んだとしても、自分の選んだ道程を楽しんでほしいと思う。
楽しみを見出せるのは、他の誰でもない、自分自身だということは知っておいてほしい。
そして、再びカイロプラクティックの楽しみを感じられたのなら、いつでも戻ってきて欲しいと願う。
Enjoy Chiropractic!!
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