今更ながらではあるが、文章力と読解力は大変重要な要素である。
それは私たちカイロプラクターにとっても例外ではない。
まず、私たちは問診時に発症時の様子やこれまでの経過、そして現状を、発せられた言葉から読み取れなくてはならない。
そうした読解力の他に、話を引き出すだけの会話力も必要だろう。
会話力の基盤となるのは文章力である。
文章の書ける人は会話もある程度できる。
文章すなわちシナリオを構成する能力が期待できるからだ。
一方、会話ができる人が文章も書けるとは限らない。
思いつきで捲くし立てているだけで、まとまりがなければ、当然まとまらない。
ただ喋っているだけで五月蠅い人は、文章の構成作業を面倒と思うらしい
文語体と口語体の違いという問題もある。
それ以上に、自分の思いを相手にどう伝えるか、というのが非常に大きな問題となる。
何故なら、相手がどう受け止めるのかは予想不可能だからだ。
それ故、伝える側にはより正確性が求められる。
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思ったままを言葉にして、それをそのまま相手に伝えることは難しい。
また、相手に間違った解釈で受け止められる場合も少なくない。
3年くらい前だろうか、ある講演会で100人強の前で話をしたことがある。
それなりにシナリオを書いて、そこからキーワードを抽出して、更にオチを決めた。
私は原稿を読まないので、正面を見据えたまま堂々とスベった。
時間的制約を受け、まとまりには欠けたが、ポイントポイントは押さえたつもりだった。
後日、何となくネットサーフィンをしていて、あるブログへとたどり着いた。
カイロプラクティックを勉強しているか、卒業間近の人のブログだったと思う。
講演会に参加されたらしく、感想が書かれていた。
その中に、私の話した内容についても触れられていたようだった。
中でも、私が最後に話したエピソードには特に感銘を覚えたらしい。
恐縮してしまう一方で、何とも言えない感情が湧きあがったのを覚えている。
「~ようだった」「~らしい」と、曖昧な表現をするのには理由がある。
そこには、私の意図したモノと異なる内容が書かれていたからだ。
レシピ通りに作ったはずなのに、全く違う料理が出来上がったかのようだった。
まあ、全くの別物であっても、それが気に入って自分の味となるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。
表現はやや汚いが、勝手にマネして、勝手に気に入ってくれる分には何の罪もない。
ただ、「伝わっていない」という事実を知ってしまった側としては、複雑な心境である。
以前、カイロプラクティックと整体の混同に関して「正確に伝導すべきカイロプラクター側の怠慢」と表現した。
ただ、伝えても伝わらない、という場合もある。
よって、カイロプラクティックをより正確に伝えようと努めなければならない。
それでも、伝わらない人には伝わらないだろう。
ならば、いっそ「伝わらないモノ」として捉えてみてはどうか。
ただ、「伝わらないモノ」として諦めてはいけない。
「伝わらないモノ」だからこそ、伝わるまで伝え続けなければいけない。
伝導とはそういうものではないのか。
「諦めたら、そこで試合終了ですよ」
勝手にカイロプラクティックをゲームセットしないように。
特に、私の知っているD.C.には文章力に"??"のつく人たちが少なくないからなー…。
翻訳文の校正作業は困難を極めたんだよなー…(遠い目)。
ちゃんとカイロプラクティックしなさい。
そうだ。うん、しよう!!
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