先日、私が関わっているサイトのブログにある書き込みがあり、その一節に次のようなものがあった。
「カイロプラクティックは患者のモノであって、我々のモノではない」
カイロプラクティックは誰のモノなのか??
正直、考えたことがなかったので、少々面食らってしまった。
面食らったままなのも何なので、少し考えてみる。
[0回]
「我々」ということは、カイロプラクティックに多少なりとも関わりのある人なのだろう。
だとすれば、この人にとってカイロプラクティックは何なのだろうか??
仮に単なるツール(Tool)の1つなのだと考えれば、この表現もある程度納得がいく。
となると、この人はカイロプラクターではない、と解釈できる(少なくとも、私の中では)。
そもそも、自分のモノでないとしたら、自分の職業にならないのではないか??
「患者」と呼ばれる人たちに提供する、という意味では、「患者のモノ」という言い回しも分からないではない。
それでも、「我々のモノではない」はずがない。
カイロプラクティックは、まずは私たちカイロプラクターのモノだ。
カイロプラクティックに魅せられたからこそ、カイロプラクターとして生きていける。
必要とする全ての人にカイロプラクティックを提供することが、カイロプラクティックに魅せられた者として課せられたミッションの1つであると考えている。
カイロプラクティックを都合よく利用して金儲けに走るな、という意味での発言なのかもしれない。
ちゃんとカイロプラクティックをした結果の収入ならば、外野からとやかく言われる筋合いはない。
ちゃんとしていない人に対しての戒めの意味ならば、もはや「患者のモノ」以前の話である。
それら全てを踏まえた上での「患者のモノ」発言だったのかもしれない。
でも、やっぱり「我々のモノではない」には繋がらない。
「我々」とか「患者」とか、わざわざ小さい括りを作る必要はないのではないだろうか。
今一度、問うてみる。
カイロプラクティックは誰のモノなのか??
みんなのモノである。
そうあるべきである。
違うだろうか??
当然ながら、いろいろ意見はあるだろう。
それでも私はその思いを胸に、これからもプラクティスを続けていくよ。
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