アメリカに居る時、「英語の勉強」と称してテレビばかり見ていた。
幾つか好んで見ていた番組の1つに"The Cosby Show"というコメディー番組があった。
その中で、とても印象的なストーリーがある。
ある日、次女デニースの娘オリビアがヒップホップ調の歌を口ずさみながら帰ってきた。
聞けば学校で先生から教わった、との事。
興味を持ったデニースは翌日、授業を見学させてもらう。
そこで行われていた授業は斬新だった。
言葉遊びのような歌詞が音楽に乗せて繰り返され、子供たちの心を捉えていく。
これまでの机に向かうだけのつまらない授業とは全然違う。
何よりも、楽しい。
「これなら私にもできる!!」
デニースは授業終了後、教師に話しかけ、自分の思いを伝える。
「私にも手伝わせてください」
「ありがとう。専攻は何だったの??」
「大学は中退しました」
「教員免許は??」
「持ってません」
「では、免許を取ってきて、それからお話しましょう」
以後、食い下がっても同じ問答の繰り返し。
納得のいかないデニース。
「教員免許が何だっていうの?? あれくらいなら私だってできるのにっ!!」
「学位が何だっていうの?? あれくらいなら私だってできるのにっ!!」
セリフをカイロプラクティックに置き換えると、こんな感じだろうか。
[2回]
カイロプラクティックの学校のキャッチコピーに以下のようなものを見たことがある。
「あなたもカイロプラクターになれる!!」
確かに間違ってはいないが、何となく誤解を与えそうな印象を受ける。
もっとも、それも計算の内なのだろうか…。
一般的にどう思われているのかは知らないが、カイロプラクティックの学校はそんなに甘くはない。
アメリカでも日本でも、最初の1学期で数人が確実に辞めていく。
「これほどキツイとは思わなかった…」というのは、よく聞く話だ。
専門学校に関しては分からないが、仕事との両立という意味では同様にキツイ面があるだろう。
それだけキツイ思いをしながら修了しても、就けるのは法的には認められていない職業でしかない。
「割が合わない」という気持ちも湧いてくるだろう。
それが「学位持ち」ともなれば、尚更である。
日本カイロプラクターズ協会(JAC)は、RMIT大学日本校(現・TCC)の卒業生と学生を取り込むことで、「学位持ち」としての地位を確立する、という青写真があったと思う。
ところが、肝心の学生はおろか卒業生からの入会者が伸びないのが現状である。
「今のJACに魅力がない」ことは以前述べた。
もちろん、それも1つの理由だろう。
が、それよりも、「学位持ち」が「学位持ち」であることに酔っている、あるいは自己満足していることの方が大きいのではないだろうか。
「学位持ち」としてするべきことが、プラクティス以外に思い当たらない。
そして、それを当然として、特に危機感は感じない。
「まずは自分の安定」などと、一見もっともそうなことを言う。
そういうことを言っていると、何処ぞの誰かのように婚期を逃すことになるというのに…。
修行、独立、結婚、子育て、教育…。
すべきこと、しなければならないことはいくらでもある。
「自分の安定」が得られた日には、他のことなど「もういいよ」と、気にも留めなくなるだろう。
自分から変えようとしなければ何も変わりはしない。
学位にはいろいろあることも既に述べた。
何であれ「学位持ち」であるならば、カイロプラクターとしての自分に責任を持たなくてはいけないと思う。
責任と啓蒙、そして、そこから生み出される「羨望」。
「学位持ち」を羨ましいと思わせないといけない。
「学位持ち」になりたいと思わせないといけない。
学位の必要性を痛感しない限り、現状維持で満足してしまう。
そうでなくても人任せの「事なかれ主義」が蔓延している業界なのだから。
「学位が何だっていうの?? あれくらいなら私だってできるのにっ!!」
このセリフを言わせる余地を作ってはいけない。
たかが「学位」、されど「学位」、である。
PR