前回、ネットでの発信リスクに少し触れたので、もう少し掘り下げてみる。
2~3ヶ月くらい前だったろうか、facebookにある記事が流れてきた。
私と繋がりのある人が“いいね!”をしたネット記事が紹介されてきたわけである。
内容としては、とある巨大企業が下請けを追い込んだ挙句に切り捨てている、というモノ。
それに対して、「もうこの企業の製品は買わない!!」と強く憤っている意見が添えられていた。
それに同意したからこその“いいね!”だったのだろう。
まあ、たまたま私のところに流れてきたモノであるし、それ自体はどうでもよかった。
むしろ、その人の意見に対して残されたコメントの方が気になった。
コメントの多くは“いいね!”側だったのだが、その中に1つだけ反論のようなモノがあったのだ。
「(買わない!!などと)わざわざ言わないで勝手にすればいい。
製品のファンもいるんだから、不愉快にさせることはない」
それに対して、以下のような返信があった。
「不愉快も何も、私のSNSで自分の意見を言っているだけです」
これらのコメントに対しての“いいね!”であるが、前者が40前後だったのに対し、後者は優に100を超えていた。
フォローしていたわけではないのでわからないが、狭い世論は後者を支持したようである。
結構ムズカシイ問題ではないかと、個人的には思っている。
[4回]
私もこうして自分のブログで自分の意見を展開させている。
好き勝手に意見を書かせてもらっているのはご存じの通りだ。
ただ、好き勝手とはいえ、自分の中では最低限の配慮はしているつもりでいる。
閲覧に制限をかけていない以上、飽くまでも自主規制の範疇に収まる“好き勝手”に止めるべきだと思う。
そう、“好き勝手”にも限度がある。
それはネットも現実も同じことだ。
特に昨今のネットの場合、自分の知らないところにまでリンクを、それこそ好き勝手に張られてしまう。
情報の拡散に対する読み手側の意識は、意見を発信した当人以上に低いと想像できる。
発信者の「自分の意見を言っているだけ」に対して、何の考えもナシに”いいね!”というのは如何なものかと思う。
そもそも、根本となる記事のソースにどれだけの信頼度があるのか。
少なからずウラを取る作業はしたのだろうか。
一方的な意見に対してコメントを残し、送信する。
それらが“いいね!”によって不特定多数に拡散され、多くの目に触れられていく。
結構恐ろしい話だと思うのだが…。
どれくらい前だったか、同じような記事が流れてきた。
今回と同様に、ある記事をリンクした上で、かなりの憤りと強い批難が添えられたモノだった。
“いいね!”もそれなりの数をカウントしていた。
が、根本となる記事の内容が完全なガセだとわかったのだ。
批難コメントを添えた当人は「削除してください。シェアしないでください」と書き加えていた。
もはや手遅れである。
ネットにはこうした怖さがあるのだ。
ちなみに、何かしらの不都合な記載があったとする。
国内の運営会社サイトの場合、1週間前後で対処してもらえるという。
が、海外の会社の場合、早くても1ヶ月かそれ以上の期間がかかると、何かの番組が言っていた。
twitter、facebookは海外のメディアである。
お気楽に“いいね!”などとは言っていられない。
片や、「水は身体に良いので飲むべきだ」と煽り、
片や、「ミネラルウォーターの飲み過ぎには注意が必要」と注意を促す。
加えて、「水道水は危険」とか書いてくる。
こんなんが流れてきたら、一体どうしろというのか??
コントじゃないんだからさ…。
それでも、こうした不条理コントは今後も絶え間なく続いていくのだろう。
笑えないコントは苦痛だね…。
数ヶ月前、このブログのコメント欄も荒れたことがあった。
荒らした当人と思しき人は「敵を作らないこと」というアドバイスを残してくれた。
正直、『う~ん…』といった印象だった。
“敵は勝手に現れるモノ”との認識が個人的にはある。
こちらに落ち度があったとすれば、それはそれで当然のこと。
ただ、相手が勘違いして攻撃に走るケースだってあり得るのだ。
細心の注意を払えど、不特定多数の理解力まではコントロールの仕様がない。
そもそも、自らが率先して敵を作る物ズキなど、そうはいない。
実のところ、「敵を作らない」って人の方が却って敵が多いんじゃないのかな…。
むしろ、敵が生まれることを想定した上で持論を展開させるべきだろう。
勝手にリンクや拡散される、その可能性さえも念頭に置かなければいけない。
それくらいなまでに、ネットは身近で、且つ危険なツールとなったのだ。
それでも訴えたい何かがあるのであれば、すればいい。
リスク覚悟の上での行動であれば、結果叩かれたとしても毅然とした態度でいられるはずだ。
「そこまで真剣にネットしてねぇよ」という人ももちろんいるだろう。
それはそれで構わない。
その代わり、真剣な場に茶々をいれるなってことだ。
最終的には、個人の“個”が問われることとなる。
そこにネットも現実もない。
無くてもいいが、“個”のある人の方が絶対的に面白いし魅力的だ。
毎度のことながら、エラソーなことを書いている。
そんな私に“個”がどれだけ、またどこまで伝わっているかは甚だ疑問である。
まあ、叩かれたってことは、少なくとも“個”の存在だけは確実に伝わっているようだ。
“個”の発表は来年以降もしばらくは続く予定である。
よっぽどのことがない限り、基本スタンスはこれまで通りとなるだろう。
良くも悪くも、これまで通りお付き合い願いたい。
あら…、カイロプラクティックに触れることなく終わっちゃったな…。
Merry Christmas & Happy New Year!!
Happy Holidays!!
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