ある番組で、コメンテーターの方がこんなことを言っていた。
「“Global Standard”と“国際基準”とは違う」
一見、何のコトだかよくわからない。
どうやら、こういうことらしい。
“Global Standard”とは、世界発のモノをその基準に合わせるということ。
“国際基準”とは、日本発のモノを世界の基準にするということ。
なるほど…、面白い。
そう思うのは私だけだろうか??
[7回]
以前、カイロプラクティックの世界から“Subluxation”という言葉が抹消された期間があった。
そこで、日本では“Subluxation”を残すべきだと、このブログ上で細々と訴えかけた。
ある意味、世界の流れに背を向けている状況が却って都合良かったわけだ。
ガラパゴス化しようが、“Subluxation”は守り続ける。
それがやがて世界のスタンダードになればいい、と。
つまり、それこそが日本発の“国際基準”を意味している。
ただ、日本のカイロプラクティック業界で言われる“国際基準”は意味が全く異なっている。
“Global Standard”の単なる和訳に過ぎない。
カイロプラクティック後進国の日本としては、そのレベルを世界のそれと同等なまでに引き上げたい。
そういう思いがあったはずだ。
その思いが、後のRMIT大学日本校の開校へと繋がるのである。
そこに行きつくまでの先人方の苦労は、一体如何程のモノであったであろうか。
永遠の下っ端である私ごときでは想像すらできない。
“Global Standard”なカイロプラクティックが日本語で受講できる。
一般的に英語が苦手といわれる日本人にとっては魅力的な響きだったに違いない。
その一方で、それを全く魅力に感じない人達も決して少なくはなかっただろう。
本場のモノは本場で、それも本場の言葉で学びたい。
それもまた当然な欲求であり、素直な欲求とも言えよう。
日本を離れて初めて、日本を客観視できるようになる。
そして、外に出て活躍をする人だからこそ感じられるモノがある。
以前、パリコレ等で活躍しているデザイナーさんはこう言っていた。
「インターナショナルになることは、よりナショナルになることだ」
海外でカイロプラクティックの勉強を積めば積むほど、日本の現状を憂うようになってくる。
習得したモノの多くが日本では制約を受けてしまうからだ。
そのため、帰国を断念し活躍の場を海外に求めた日本人D.C.も少なくはない。
D.C.の先生方の多くはスタートそのものがインターナショナルだ。
もちろん、日本で何かしら学んでから渡米した人もいる。
が、カイロプラクティックに関しては一旦リセットして、一からやり直している人の方が多いように感じる。
その所為もあるのだろうか。
そこに日本人カイロプラクターとしての“ナショナル”という意識は希薄のように思える。
一方、国際基準は特別インターナショナルを意識しているわけではない。
日本人としての“ナショナル”はあるが、国外に目を向けていないため、“ナショナル”を意識することなど皆無に等しい。
それでも、“国際基準”=“Global Standard”という意識はある。
そう習ってきたからだ。
別に不思議な話でもなんでもない。
要は、モノの見方と角度が全く違うのである。
近いからこそ仲が悪いという、何処ぞの国との関係と図式がよく似ている。
別に相容れないわけではない。
ただ、自分から折れる理由もない。
共通するのは、“ナショナル”という意識の乏しさのみ。
その共通項には目もくれず、何故か互いを卑下し批判をする。
何というか、巷によくある、つまんねー話なわけである。
前回も少々触れたが、ネット上の記事に対して賛否両論が繰り広げられることが多い。
それはそれで当然だとは思っている。
ただ、その展開の仕方が往々にして腹立たしく思える。
大抵の場合、物事には一長一短がある。
にもかかわらず、“一長”は無視して“一短”だけを取り上げて批判する。
一度批判されれば、その都度批判で返される。
哀しいかな、日本のカイロプラクティック業界もこれに準ずるところがある。
片や、「一緒にするな」とばかりに見下した態度をとる。
片や、「D.C.のくせに…」などと、勝手にハードルを上げておいてコケ下ろす。
当たり前ではあるが、皆が皆そうだと言っているわけではない。
困ったことに、中にはそういう人がいる、というだけだ。
更に困ったことには、そうした人たちは全く悪気なく発言していたりするのである。
そこに輪をかけて困ったことには、そうした人に限ってよく喋るということだ。
おそらく「それほどの話ではない」との認識なのだろう。
しかし、その頃には既に後には引けないところまで来ている場合が多い。
結果、トーンダウンした後、軽く言い訳をし、そして逃げを決め込む。
挙句の果てには、相手側への擦り付け。
あまりの低次元さに周りが距離を置くようになり、そのまま自然風化していく。
何一つ解決しないままの放置故か、同じような問題が何度となく勃発してはその繰り返し。
まさに不毛としか言いようがない。
自戒の念も込めて、敢えて書く。
批判は長所に対して行うべきではないだろうか。
短所の批判など誰でもできるし、その延長上には悪口しかない。
批判したければ、それに代わる対案を出さなければ意味をなさない。
私もいろいろ書いてはいるが、それなりの対案を提示しているつもりだ。
単に相手を貶めることで、一体何が得られるというのか??
対案が出せないからダンマリを決め込む人もいる。
実はそうした人が大多数なのかもしれないが、それでは何の発展も見込めない。
長所の批判というか、褒めて伸ばすというのが一番じゃないだろうか。
業界をリードするとか、率先してとかではなく、一緒に育てていくくらいの思いでいいと思う。
それだけでも十分に伸びていけると、個人的には感じている。
それでも、「長所がないんだから仕方がないじゃないか」とか言ってくるヤツが必ずいる。
そういうヤツには、こう返すしかない。
『なら、黙ってろ!!』と。
“Global Standard”を超えた、日本発の“国際基準”。
実現できたら…と、魅力的に思うのは私だけではないと思いたい。
D.C.も、既に“国際基準”を満たした先生も、そして専門学校卒の先生方にももっと興味を持って頂きたい。
厳しい現状である今だからこそ、改めて問うていきたいと思っている。
では、今年もこんな感じで。
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