早いもので、今年も4月を過ぎて5月へ突入した。
年度が変わり、各オフィスでも人事を含めた様々な動きがあったようだ。
私の同期たちも、昨年くらいから開業へ動き出していると聞いている。
中には寿退社された先生もおり、その後任に就いたのがまた同期だったりするケースもある。
つい今しがたも、同期の寿らしき記事をブログ上で確認した。
どうやら、私の周辺辺りまでは春が訪れているらしい。
寿か…、楽しそうだな…。
知らんけど。
この3月に卒業した後輩の中にも、既に開業した先生がいる。
いろんな意味で大したモノである。
まずは私を踏み台にして、さっさと、そしてとっとと立派なカイロプラクターとなって頂きたい。
簡単だよね。
せっかくRMITを卒業したのだから、それなりに立派でなければ困る。
それは各自が自覚を持って然るべきコトだと考えている。
が、実際はそうでもなかったりする。
困ったもんだ、マジで。
[5回]
今のご時世、ホームページをもっていないオフィスの方が少ない。
最近ではそこにツイッターやフェイスブックがリンクすることで、文字通り“なう”な情報を発信することもできる。
スマートフォンの普及のおかげで、特に携帯用サイトを開設せずとも情報を提供できるようになった。
このあたりは双方にとってメリットしかなく、活用しないテはないように思う。
その一方で、これまで以上に正確な情報の発信を心掛けなければいけない。
専門学校卒の先生のオフィスの場合、カイロプラクティックに関する説明がまちまちのことが多いように思える。
カイロプラクティックはアメリカが発祥で、
アメリカではカイロプラクターはドクターであり、
よって、医者と同等の立場にある。
多くはこんな感じのモノだ。
読み様によっては、「私もそれ相応の勉強をしてきました」と言っているようにも解釈できる。
となると、「じゃあ、なんでアンタは専門学校で2年かそこらしか勉強してないんだ??」というツッコミが生じてくる。
特に、カイロプラクティックに批判的な人からすれば当然のツッコミと言えよう。
それに対しダラダラとした言い訳を書き加えているサイトも少なくない。
が、そんなことをするくらいなら、いっそ初めから余計なことは一切書かず簡潔にまとめておいた方がいい気がする。
一般的に、文章が長々と綴られているだけのサイトなど、誰も目など通さないものだ。
このブログを運営している私が言うのだから、間違いない。
ふふ。
このあたり、RMIT出身の先生の場合はまだマシなように思える。
これは私がこのブログで常々書いている通りだ。
残念なのは、本当に“マシ”な程度で終わっている現状である。
せっかく4年もの年月をかけてきたのに、カイロプラクティックに対する熱い思いは育たなかったようだ。
にもかかわらず、それを生業とする。
本来、それもオカシな話なのだ。
それでも、オカシな話で止まっていてくれればまだいい。
これがHP等で更にオカシな情報を発信されたりすると、もはや笑い話では済まされなくなる。
以前にも書いた通り、“アメリカ生まれの整体”などという表記はもはや論外。
アクティベーターを使用するにあたり、「ボキボキしません」「怖くありません」などと書くのもどうかと思う。
それは、多くの同窓生が「怖い」コトをしていると、遠回しに言っていることに繋がってしまうからだ。
そして、何よりも「カイロプラクティック=怖い」というイメージをカイロプラクター自身が容認していることにも繋がってきてしまう。
そんな中、このような内容の書かれたブログと出くわした。
「サブラクセーションを取り除くことで自然治癒力が働き出すという。
そんな都合のいいコトを…」
そうした思いから、このヒトは他の療法を取り入れていくとのこと。
ちなみに、これまたやっぱりRMITの卒業生だったりする。
記載によると、このヒトはカイロプラクティックの説明の必要性をも否定している。
「『カイロプラクティックとは…』といった説明は聞かされる側からすれば邪魔くさいだけ。
このあたりの説明はカイロプラクター側の満足にすぎない」
ってなことらしい。
要は、利用者からすれば「治れば何でもいい」ということを、このヒトは言いたいのだろう。
それが利用者の目線だ、と。
まあ、その部分は確かにその通りだと思う。
ただ、それは言い換えると、「治りさえすればカイロプラクティックじゃなくてもいい」ということになる。
それを承知の上で、カイロプラクターとして何ができるかを考えるべきだと、少なくとも私は思っている。
カイロプラクティックにはそれだけのパワーがある。
だからこそ、カイロプラクティックは100年強もの間、生き残ってきたのだ。
日本では、未だカイロプラクティックが十分に認識されているとは言えない現状がある。
それ故、カイロプラクティックを正しく理解してもらう術を考えることは、カイロプラクターであれば当然のことだ。
まして、国際基準を掲げるカイロプラクターであれば、尚更である。
逆に、それを無くして、個人的にはもはやカイロプラクターとは認め難い。
先のヒトは、カイロプラクティックのフィロソフィーを半ば否定している。
にもかかわらず、そのヒトは“カイロプラクター”を肩書として使用している。
ヘタに学位などを修得している分、甚だ迷惑な話だ。
ある意味、短期の週末セミナーを受講しただけの似非カイロプラクターより、はるかにタチが悪い。
そうは言うものの、思えば私もそのヒトと同じようなことを言っていたかもしれない。
時期にして、ナショナル(NCC)からライフ・ウエスト(LCCW)に編入した当初だったと思う。
フィロソフィーのないNCCから私にとって、LCCWでのフィロソフィーの授業は苦痛以外の何物でもなかった。
『フィロソフィーはカイロプラクターを救うが、フィロソフィーが患者を救うことはない』
その当時の私の名(迷)言である。
確か、期末試験代わりのレポートに書いた、最後の締めの一文だったと記憶している。
これでよく単位がもらえたもんだ…。
そんな悪態をつきながらも、常に悩み、考えていた自分がいた。
カイロプラクティックって何だろう??
何でカイロプラクティックなのか…??
………。
それから紆余曲折を経て、今の私がある。
紆余曲折についてはいずれ述べるとして、今ではフィロソフィーも少しは理解できるようになったと勝手に思っている。
RMITにはNCCのカラーが色濃く残っていた。
先のヒトのような者が育ってしまった背景には、良くも悪くもRMITの影響があったものと想像できる。
TCCとなった今、何らかの改善は成されたのだろうか。
嘗ての私や先のヒトのように、誤った認識を宿したカイロプラクターをこれ以上生み出してもらっては困るのだ。
もちろん、全てを学校の所為にするわけにはいかない。
むしろ、卒業後のプラクティスこそが大きな意味合いを占めてくる。
そして、開業する際に作成されたHPの記載から、多くのことが推測できる。
その人が、真のカイロプラクターかどうかも含めて。
だから、私はこう言い続けている。
『ちゃんとカイロプラクティックしなさい』、と。
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