巨星墜つ。
日本のカイロプラクティック業界に多大なる影響を及ぼした竹谷内一愿D.C.がこの世を去った。
もちろん、この日がいつか来ることは解っていた。
それでも、もっと先のことだと勝手に思っていた。
それ故、その時は突然訪れた、そんな感じが強い。
衝撃の事実は1通のメールによって知らされた。
外出先だった私は平静を装いながら、内心では様々な思いが駆け巡っていた。
[6回]
個人的には、アメリカ留学の際に大変お世話になった。
アメリカのカイロプラクティック大学に出願する際、2名からの推薦文が求められる。
その2名のうち、1名はD.C.でなくてはならない。
私は一愿先生に推薦文を依頼、快諾して頂いた。
ナショナル(NCC、現NUHS)の卒業生であり、NCC学長と同級生であった先生は大変心強い存在だった。
“カズの推薦を受けた日本人”ってことで、学長にも覚えられてしまった。
まあ、成績の伴わない私にとってはエラいプレッシャーにもなってしまったわけだが…。
入学後、一愿先生からの小包が不定期ながら届くようになった。
中身は日本カイロプラクティック総連盟(JCA)の発行していた“JCAジャーナル”。
まだインターネットが普及しつつあった頃で、こうして得られる情報は本当に貴重だった。
一愿先生が次男の康修先生とシカゴを訪問された時、空港まで出迎えたことがあった。
母校であるNCCに着くまでの間、数年ぶりとなったであろうシカゴ郊外の街並み。
助手席に座られた先生は誰よりも興奮していたように思う。
NCCに到着し、テクニックルームに向かった。
当時のテクニック部門のチーフだったドクターもまた、先生の同級生であった。
『ドクター、お時間を少々宜しいですか??』
当初は「ちょっと待ってくれ」と怪訝な顔を見せていたドクター。
が、私の奥にあった一愿先生の笑顔を見つけた刹那、その表情を一変させた。
今にも泣きださんばかりの表情で駆け寄ると、そのまま一愿先生を無言で抱きしめたのだ。
あの時に見せた笑顔が、私の知る限りではベストのモノだったな…。
ま、今回の遺影も良かったけど。
一愿先生の体の不調を知らされたのは、それから1年も経たずしての頃だったと思う。
あの笑顔の主が大病に侵されるというのは、にわかに信じ難いものだった。
折しも、RMIT大学日本校が開校し、WFCカイロプラクティック世界大会の日本開催が決定していた時期。
アメリカに居ながら日本のカイロプラクティックの行末を真剣に考えたのも、あの時が最初だったように思う。
それから紆余曲折を経て、私がそのRMIT日本校に籍を置くこととなる。
10数年ぶりの再会となったが、体調も良いようで満面の笑顔と期待をもって迎え入れてくれた。
まあ、その期待は見事に裏切ったわな。
それどころか、恩を仇で返した感さえある。
その象徴がこのブログかもしれない…。
うーん…。
通夜の席に案内された時、場内では長男・克彰先生によって故人からのメッセージが読み上げられていた。
時折声を震わせ、言葉を詰まらせながらも読み上げた姿は立派だった。
そんな中で、様々な思いを巡らせてしまっている私がいた。
「留学生は皆、自分の子供のように思えた」
うーむ、ろくでなしなヤツで本当に申し訳なかったというか…。
この点に関しては、ヒジョーに複雑な思いがあるな…。
「やり残したことは何もない」
そうかな??
日本初のD.C.を自らの手で送り出したかったんじゃないのかな??
「あー、そうだった。忘れてたよ~」
あの笑顔でそんなことを言ってそうな気がする。
結構そういう一面のある人だった。
反面、激情型で突っ走ってしまうところもあった。
思いの強さに比例するもので、その分反発も多く買ったに違いない。
晩年の病も長年にわたる気苦労の蓄積ではなかったか…。
良くも悪くも、インパクト絶大だった一愿先生はもういない。
まるで“サブラクセーション”の削除と時を合わせたかのように逝ってしまった。
残された者たちに多くの宿題を残して。
…ま、このあたりはRMIT時代からの名残かな。
ふふ。
TCCは“一愿イズム”を継承していくのだろうか。
それが学校としての“色”ならば、それでいい。
カイロプラクティックがカイロプラクティックであり続けるのであれば、問題があろうはずもない。
残された者たちが科すべき課題は、日本における“カイロプラクティックの確立”である。
先生が背負っていたモノを各人が受け継ぎ、形としていくこと。
それは即ち、カイロプラクターとしての“覚悟”を決めることでもある。
以前、JCA時代の会長職の引継式の写真を見たことがある。
前会長となる一愿先生から新会長に“重荷”と書かれた箱が手渡されている写真だ。
今、多くのカイロプラクターたちが、この引き継がれていくべき“重荷”に背を向けている。
背を向けているから、その“重荷”の正体すら分からない。
“パンドラの箱”なのか??
だとしたら、既に箱は穴だらけのスカスカで、中身は空っぽに近いはず。
せめて“希望”だけでも残っているものと信じよう。
それとも、“玉手箱”なのか??
まあ、誰からも止められてないので、煙に包まれて老人となり、挙句は鶴となって飛んでいくことはないだろう。
いっそ何処かへ飛んでいってしまいたい…って人はいるかもしれんがな。
通夜には日本各地から大勢のRMIT卒業生が参列した。
おそらく、同窓会でもこれほどの人数は集まらないだろう。
先生のおかげで、カイロプラクターとしての繋がりを再確認できた。
さあ、どうする??
覚悟は決まったかい??
ならば決意も新たに、日々精進していこうではないか。
竹谷内一愿先生における多大なる功績に対し、心よりの感謝と哀悼の意を表するものである。
合掌。
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