『「カイロプラクティック」って言っても、先生によって全然違う』とはよく聞かれるセリフである。
多くの場合、個人の技術・力量を指して言われているのだと思う。
その一方で、全然違うことをやっている、という意味合いの場合もあるだろう。
確かに、カイロプラクティックにはさまざまなテクニックが存在する。
主にはその名の由来通りに手技のみで行われることが多いかと思うが、アクティベーターのように器具を用いる場合もある。
数あるカイロプラクティック・テクニックの中で、もっともポピュラーなのがディバーシファイド(Diversified)と呼ばれるモノである。
ディバーシファイドには「多様性」という意味が含まれる。
つまり、極端に言えば「何でもアリ」に繋がる。
それぢゃあ、先生によって全然違っちゃうよね。
中には、「そんなのカイロプラクティックじゃねえよ」と、個人的には言いたくなるテクニックも存在する。
そうした、私にとっての「何だそれ??」テクニックに強い興味を示す学生ほど、成績優秀だったりする。
幾分の偏見は混じっているかもしれないが、そう間違ってもいないような気がする。
「あいつは頭が良すぎて、どっか行っちゃったよねー」とは、そうした学生を指した、私のセリフ。
どっか行っちゃった挙句、カイロプラクティック業界からも離れてしまった者も、少なくないのだが…。
[4回]
RMIT大学日本校(現・TCC)では、アクティベーターの使用に傾いた卒業生が一時期少なくなかったらしい。
安易にアクティベーターの使用に走ることに危機感を覚えた学校側は、学生に対しセミナーへの参加の禁止を呼び掛けたようだ。
学校側は否定しているが、セミナー参加をとがめられた学生が実際にいることから、その信憑性は高い。
個人的には、学生側の気持ちもわかるし、学校側の危惧も理解できる。
例えば4年制の場合、3年生以上であればセミナー参加を認めていいのではないかと考えている。
何も分からない低学年の段階でセミナーを受けてもほとんど意味がないように思えるし、危険である。
では、何故アクティベーターの使用に走るのか??
もちろん、本人の向学意欲の表れから来るものであれば、他人がどうこう言う筋合いはないように思える。
ただ、必ずしもそれだけではないらしい。
ある人はこう宣ったらしい。
「ディバーシファイドに限界を感じた」
この人が成績優秀だったかどうかは定かではない。
が、明らかにどっか行っちゃっている発言だ。
例えば、セリフが「ガンステッドに限界を感じた」というのであれば、まだ少しは理解できる。
Dr.ガンステッドが既に亡くなっているため、理論にこれ以上の進化は見られない。
よって、ガンステッド・ベースの治療法の進化は見られても、純粋なガンステッドはそのままのはずである。
そうでなくてはならない、と個人的には思っている(この点に関し、反論もあるとは思うが…)。
一方、ディバーシファイドは「多様性」である。
多様であるからこそ、進化もまた多様となる。
進化の可能性がある以上、そこに限界は存在し得ない。
仮に限界があるとして、限界を感じるほどの努力とは、如何ほどのモノなのか??
RMITは開校して15年ということからしても、積み重ねられた努力は10年にも満たないと推測できる。
それくらいの期間で、そこまで分かってしまうのだろうか??
そもそも、限界を決めているのは誰なのか??
他の誰でもない、本人のはずである。
「ディバーシファイドに限界を感じた」のではなく、「本人が本人に限界を感じた」だけ。
ディバーシファイドにとっては、いい迷惑としか言いようがない。
以前、島田紳助サンが漫才師を刀鍛冶に例えていた。
ある意味、カイロプラクターも同じようなものではないだろうか。
最高と呼べる名刀を生み出すべく、熱し叩いては冷やし、また熱し叩いては冷やすことをひたすら繰り返す。
何年かかるか分からない程の年月をかけて、最高傑作を生み出していく。
そんな修行の途中で、使い勝手の良いナイフと出会ってしまった。
簡単に作れて、評判が良い。
何よりも、大量の数をさばけるのが嬉しい。
では、このままナイフ職人となるのか。
それとも、刀鍛冶を続けるのか。
本人の決断であるから、どちらが良いとか悪いとか、第三者が口を挟むことではない。
ただ1つ言えることは、ナイフを作りながら良い刀を作り続けることは不可能だということである。
ディバーシファイドであれ、アクティベーターであれ、自分が思っている以上に真剣に取り組んでいただきたい。
テクニックに魅せられた訳でもなく、安易にアクティベーターに手を伸ばす人があまりにも多いように感じるので、今更ながらの警鐘を鳴らしたいと思う。
ちゃんとカイロプラクティックしなさい。
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