学生時代、ある男と知り合った。
男は一見取っ付きが良く、物腰の柔らかさも手伝って、当初はそれなりに信頼感があったようだ。
しかし、時を追うごとに、不平不満ばかりが口を衝いて出るようになっていた。
学校、業界、将来、ありとあらゆるものに対する不満。
ロクにカイロプラクティックもせずに、他に聞きかじった治療法を試しだす。
更には自分の過去の年収を持ち出しては、現状を憂いて聞かせてくれる。
そして、誰かが来る度に同じ話を繰り返す。
笑える話ならそれもアリだが、ネガティブな話がしつこく繰り返されると、だんだん腹が立ってくる。
皆が自分に同調してくれると思っているあたりは、ある意味幸せなヤツだと思う。
「誰、この人??」と、これをアップすることで私の周辺は騒がしくなるのかもしれない。
また、これだけの情報で、この男が誰のことなのか特定できてしまう人がいるのかもしれない。
仮に特定されてしまったとしたら、それはつまり、私と同じ思いを感じていたということになるのだろう。
私はこの男とはある程度距離を置き、遠巻きでに流していた。
「よくぞここまでネガティブに…」と、変な興味が少しは湧いてきたようにも思えた。
「人間、ああは成りたくないものだな…」
逆にポジティブの大切さを教えてもらったとも考えられる。
…それほどでもねぇか。
[0回]
「自由」という言葉がある。
「自由」は「不自由」の上に成り立っているのではないか。
仮に「自由」ありきであれば、「自由=普通あるいは日常」となり、「自由」という言葉が生まれるはずがない。
つまり、「不自由」ありきの言葉なのだと思う。
あるいは、「自由」もまた「不自由」なのかもしれない。
つまり、「自由」という名の「不自由」。
「幸せ」もまた然り。
「不幸せ」があってこそ、「幸せ」の有難みを噛みしめることができるような気がする。
「不幸せ」なしの「幸せ」は、おそらく与えられた「幸せ」に過ぎず、自らが勝ちえた「幸せ」ではない。
となると、思考はまずネガティブありきなのかもしれない。
あとはそのままネガティブのままで止まるか、ポジティブに変換を計るか、その違いである。
かく言う私も、かなりのネガティブ思考だった。
かの男を苦々しく思うのも、自分の嫌な部分を見せつけられているような気がして、我慢ならなかったからなのかもしれない。
そこで、自分のネガティブ思考の行く先について考えてみた。
ポジティブとは肯定的な前向き、ネガティブとは否定的な後向きな思考と言ってもいいだろう。
独りで前向きに進んでいくには、孤独に打ち勝つパワーが必要となる。
後ろを向けば、後からやってくる者が近付いてきて、目を合わせることができる。
会話もできるし、愚痴も出せる。
そのまま後ろを向き続ければ、また次の後続がやってくる。
後続はただ前を向いて歩いているだけ。
たまたま途中で前に居た人に挨拶しただけに過ぎない。
特に用もないので、その場で立ち止まることなく、そのまま抜き去っていく。
後続が来なければ、また独りとなる。
その時になってやっと前を向きなおしても、後続だった者たちは、影も形も見えないまでに遠くへと進んでしまっている。
「どうして待ってくれないんだ…」と、独り言でも愚痴る。
学校のクラブ活動で、ヘタクソだった卒業生の先輩がやたらと顔を出してくることがある。
「後輩の指導」を名目に、実際は新たな環境でできなくなった先輩風を吹かせたくなっただけに違いない。
ヘタクソに指導などできるはずもなく、結果、自分よりもヘタクソな後輩がその迷惑を被ることとなる。
思うに、ネガティブの先には自分に対しての「慰め」以外には何もないのではないか。
ネガティブだけに、プラスになる要素は全くない。
「マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスだよ」と反論してくる人もいるだろう。
ただ、そういう輩に限って、掛け算するところで足し算をしていたりする。
発言自体に間違いはないが、人生の計算の仕方が間違っている。
計算ミスをしておいて、「世間が悪いんだぁー」と責任転嫁しているようでは、もはや話にもならない。
その先に何もない以上、ネガティブに考えていても時間のムダ。
だから、私は思考をポジティブに変換した。
元来ネガティブなので、今はまだ無理矢理ポジティブにしている感は否めない。
が、こちらの方が先への希望が持てる。
たまに後輩と話をする機会があるが、私はまず最初に「楽しんでる??」と尋ねることにしている。
そこで「楽しいですっ!!」という返事が返ってくれば、取り敢えず問題はない。
楽しまなければ、身につくものも身につかなくなる。
表立って言うことではないかもしれない。
が、カイロプラクティックの臨床も楽しんでやった方がいいし、やるべきだ。
こちらの楽しさは相手にも必ず伝わるし、それを不愉快に思う人はそういないだろう。
そして今、私はこのブログを楽しんで書いている。
楽しみ過ぎて少々ダラダラが過ぎる嫌いもあるし、また内容に関して不愉快に思う人もいるだろう。
とはいえ、万人に受け入れられることはないのだから、止むを得ないところではある。
もうしばらくはこの楽しみを続けていこう。
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